中学でのあだ名は「寝王」「天皇」でした。なんの象徴やねん。
最近では「受験」と言えば中学受験もメインの話題になりつつありますね。小学生と話していても当然のように中学受験の話題が出てきます。
私の時代はまだクラスの4分の1程度の子が中学受験する程度で、かくいう私もなんとなく中学受験してみたわけですが、対策とかなんもしなかったので当然のごとく受からず、そのまま地元の中学校に進学しました。
その地元の中学校というのがなんでも結構底辺らしいと言われておったのですが…、まぁマイペースにいろいろありながら乗り切り、高校受験はがんばって都内でも上位校に進学しました。
そしたらですね、中学までとは比べ物にならないほど周囲の子たちの様子が全然違うのです。
頭の良さもハンパなく、中学までは「私頭良いかも」と調子乗ってましたが、大海を知って只人になりましたよね。ええ。
おそらくいろんな中学校の1~10位くらいの人たちが集っていたので、3年かけて只人か神に二極化していったのですが、それもなんだか心地よい雰囲気でした。
ほとんどの人たちが一部の真の神童を目の当たりにして「自分、只人だったわ」と鼻っ柱を折られているせいか、「これからの時代、多様性バンザイ!」みたいな感じで、みんななんでもありで個々に楽しみを見つけて過ごしている感じでした。
中学校まではグループに分かれて陰口言ったりかわいい子に嫌がらせしたり、そんなんが普通のごとくあったわけなんですが、高校からはそういうのはあまり感じませんでした。
と、前置きが長くなりましたが、要するに、高校受験はがんばった方がいいぞっていう結論です。
高校受験を頑張るとなにが違うって、その後の人生でつき合っていく友達が変わります。
小学6年生のときに明確に行きたいと思う中学校なんてあるわけがない。(いや、ある人にはあるんだろうけど。)
だけど、中学3年生のときに決めた志望校は、大体自分の意思で選んだ高校ですよね。上位校であればあるほどなおさらその傾向が強いと思います。
自分で選んだという意思がある人たちが集うので、みんな自立している。「目標に向かってがんばれる人」たちの中で過ごすことで自分もがんばれる。
自立している人たちの中で自立して過ごせる。自立しているから、他者を認める余裕がある。だからお互いを尊重した良い関係ができる。
もう人生30数年生きておりますが、今でもつき合いがあるのは高校に入ってからできた友達がほとんど。しかも、べったりではなく数年に一度たまに会って息抜き的にお互いのことを話すくらい。
それは、みんなが自分の人生をそれぞれ楽しみながら自立して歩んでいるからだと思います。
ここが、居心地の良い地元の仲間たちとひたすら関わり合うマイルドヤンキーと呼ばれる人たちとの違いかなぁと思います。上昇志向が乏しく、新しい人間関係よりも古くからの人間関係を好む傾向があるという。
言い方難しいですが、誤解を恐れず言うとすれば、お互いに依存し合うことで自分の存在を確認し合っているような、そんな関係なのかなと漠然と思っています。それって楽だし楽しいと思うけど、充実してると言えるのかについては「?」がつくのかなと。
周りが変わればやっぱり自分も変わります。自分が変わった(勉強をがんばって良い高校に入った)から周りが変わったというのもあるかもですが。
でも、私はやっぱり、高校からの友達みんなが優秀で優しくてほんと神々のような存在だったので、彼らの姿を見て私もしっかりしなきゃと刺激された部分が大いにあります。いや、それだけしかないと言っても過言ではないくらい。
大学もまぁそこそこの上位校へ行って勉強サークルに入っていたので、私はあんまりすごくないけど周りはすごい人たちばかり。
大学で言えば東大京大早慶上智は当たり前だし、社会人になってからも国内外で活躍している人たちばかりで、日本国内ってもはや近所だわーという感覚に陥るくらいグローバル。
そんな人たちの活躍とかを聞いてると、あー私なんか全然だめだーと思いつつ、奮い立つわけですよね、心が。
そういう毎日が送れている起点はやはり、高校入学だったなぁと思います。
中学までの狭い社会で悶々としていたからこそ、衝撃も大きかったのかも。
あの頃がんばっといてよかったなぁって思うのは、学歴とか学力とか云々の話ではなくて、尊敬できる良き友達の存在が大きいです。
というわけで、中学受験はどうでも良いけど高校受験はがんばった方が良いと思うって話でした。